阿炳(アービン)の故郷在住二胡製作師
江南音楽界 真の理解者
萬其興の二胡製作技術略伝
“二胡の郷”という名声は無錫市(ムシャクシ)にとって名誉と実益をもたらしたと言える。無錫は多くの民族楽器界の名手、巨匠を生み出してきた。中国で初めて琵琶演奏の楽譜を出版した清代の素晴らしい音楽家・華秋萍(カシュウヘイ)。中国音楽学の師とあがめられる人物・楊蔭瀏(ヨウインリュウ)。中国音楽史における二胡学派の創立者・劉天華(リュウテンカ)。更に国内外でも人気が高い盲人民間音楽家・阿炳こと華彦釣(カゲンチョウ)。彼らの輝かしい業績により無錫は中国音楽史で重要な地域の1つとなった。
民族楽器演奏の巨匠がいれば当然、楽器製作の巨匠も存在する。萬其興はその中の1人だ。
萬其興は二胡を製作して50数年、自身の手で製作した二胡の数は少なくとも数千本に及ぶ。1953年、わずか15歳の彼は無錫の梅村荊同小学校を卒業後、叔父からの紹介で蘇州の袁順興楽器店の見習い生となる。そこで袁金土(エンキンド)につき二胡製作の勉強を始める。しばらくして合作化運動に従い集体企業(蘇州民族楽器工場の前身である蘇州楽器共同組合)の見習い工となり、やがて指導者から笛作りも学ぶよう指示される。生まれつき聡明で勤勉だった萬其興は3年たたずして見習いの期間を終了し、若い工員達の中で一際優れた人物となった。工場の指導者は彼の音楽的素養を高めるため、程午嘉(テイゴカ)や黄安石(コウアンセキ)など多くの音楽家と交流を持たせ、親交を深めさせた。1959年、彼は技術指導のため杭州の楽器工場へ出向する。期間中、協力工場の技術力向上に惜しみない援助をする。
この頃の萬其興は仕事で成功し順風満帆のようにみえた。しかし、程なく国民の経済状況がひどく悪化したため、楽器業界は下火になった。工場は生産停止または一部生産停止に陥り、多くの工員は工場を離れ農村への下放を迫られた。萬其興は故郷に親族がいたため、愛する民族楽器の仕事を離れ、下放の条件を整え、梅村鎮に帰った。故郷に戻った萬其興はかつて携わっていた民族楽器の生産を再び始めたいと思い、十数名の弟子と共に苦難に満ちた起業生活を開始した。その梅村楽器工場は無錫で第1号の人民公社工場と言える。
しかし残念なことに外部の環境が悪く、事業は軌道に乗らなかった。このとき他地域の楽器工場が萬其興の技術を慕い、技術指導の依頼をするため続々と梅村鎮を訪れた。これにより九江市・南昌市・南京市等の楽器工場で短期間仕事をしていたことがある。1966年、南京星海楽器工場が彼を引き抜く計画を立てたが、人材を移動させるには戸籍の問題があった。当時の梅村鎮幹部は楽器生産の凄腕として萬其興を評価しており、梅村鎮に残って楽器工場の運営再開を望んでいた。こうして萬其興は遠回りをしてまた故郷に帰ってきた。しかし『文化大革命』により芸術家・音楽家は全て追放や吊るし上げにされた。誰もが芸術や音楽に抵抗感を抱き、楽器の生産も二度と立ち直ることが出来ない状況となった。そのため照明器具や写真立てなどの副産物を生産しながら、何とか運営を続けていた。
才能のあるものはいずれ頭角を現す。陰気でどんよりとした業界にも改革開放の春風が吹いた。1992年、再び楽器製作に取り組み、工場の生産はすぐに回復した。当初は資金などの理由により蘇州や上海などの楽器メーカーや楽器店からの加工業務ばかりだった。しかしこの状況に萬其興は決して満足せず、彼の努力により、徐々に自社楽器の生産を回復させた。萬其興は一貫して品質を重視し、常に最高水準の製品を追い求める性格である。暇さえあれば二胡の演奏レベル向上のため練習にいそしみ、プロ仕様の二胡は全て自ら試奏、検品し合格した楽器のみ出荷できる。優れた二胡は声楽家と同じで、自身の特徴と個性を持ち、スタイルを確立させ、優位に立てる製品こそ長期間第一線で活躍できる。特に二胡の場合、完成時の音質が長期的に安定し続けるかにも配慮しなければならない。言葉にするのは簡単だかこのレベルに到達するのは容易ではない。素材選びや前段階の乾燥処理、適切な皮張り作業は一見些細なことだが実は品質に影響を及ぼす要となる技術である。萬其興は1つずつの技術を探求し研究を重ねた末、独自のルールを築きあげてきた。同時に製造技術の改良を常に行うため、音楽家のもとを訪れ楽器に対する意見を聞き、どんな提案やアイデアも受け入れる。時には工場に専門家を招き、指導や楽器の評価もしてもらう。さらに萬其興の材料選びはとてもシビアで、使用する材料は全てインドの紫檀紅木か明清時代の老紅木である。こうして数十年間、ノウハウを蓄積していき熟練された技術となった。
1995年、当時50代後半の萬其興は自分の傑作品を持って中国民族楽器学会の例会に参加した。台湾新竹市国楽団の楽器顧問である単志淵(タンシエン)はすぐに彼の二胡に惹かれ、一緒に記念写真を撮った。その後単氏は無錫を訪問し二胡製作技術の意見交換をした。彼の様に二胡を通じて萬其興と厚い友情を築いた話は少なくない。
萬其興の丹精こめて作り上げられた二胡は“萬スタイル”の特徴をもつ。音量は大きく良く通り、パワフルで、音色はふくよかで柔らかく、上から下までスムーズなポジション移動。まるで江南地区の水郷のように柔らかで美しい二胡は多くの著名二胡奏者から認められている。トレードマークである“古月ブランド”の二胡は各地の演奏者や、多くの楽器愛好家に好まれ、有名ブランドとなり楽器市場での新境地を開いた。国内外の“理解者”の多くは萬其興を慕い、遥々海を越えてお宝を探しに来る。とある愛好家は誇らしく何本も彼の二胡を所有している。
古月琴坊は中級・高級モデルの二胡を主力商品として1992年に創業した。今日までわずか十数年の間、数名の従業員から約50名まで増員し、数千平方メートルの自社工場を所有する企業へと成長した。生産している主な楽器は高胡・二胡・中胡・二泉胡・板胡・梆胡・京胡・京二胡・申胡・越胡・錫胡・淮胡・揚胡・黄梅胡・琵琶・三弦・大中小阮・響板など種類は非常に多い。見た目がユニークで、音色も美しく、それぞれ持ち味がある。ウルフトーンやノイズがカットされ、鳴りが良く音にまとまりがある。多くの同業者や専門家、教授の評価を十分に受けている。あるネットユーザーの書き込みによると「萬其興の二胡は弾き心地がとてもよく、ポジション移動は楽で自由自在、操作性がとても良いので自分が持つテクニックを十分に発揮できる。外観は磨き上げられ艶があり、細部まで念入りに作られている。老紅木の古風で質素な表面は何度見ても飽きず、江南地方独特の趣までも感じ取れる。」台湾のある二胡奏者は、台湾で萬其興の老紅木二胡に出会いその素晴らしい音色に惹かれた。同質の二胡を手に入れるため遠路はるばる無錫の萬其興を尋ね、ようやく願いが叶った。この様子は『新華日報』が『無錫の二胡製作師名声轟く、台湾の演奏家万里から二胡を求めて』をテーマに報道した。やがて『揚子晩報』『中国青年報』などのメディアが『阿炳の故郷在住二胡製作師』と題し萬其興の製作師生涯や関連する写真を相次いで報道した。
萬其興は二胡を作り続けて数十年間、完璧な作品を求めるだけでなく、人生の充実も追い求めている。
工場は目覚しい発展を遂げ、経済力も昔とは比べ物にならない。しかし、萬其興は「党の改革解放が成功したからこそ、人々が落ち着いて生活し、文化が多種多様化した。同時に楽器業界の発展に繋がり、私に才能を発揮するチャンスを与えてくれた」と謙虚に語った。彼は社会への恩返しも忘れない。荊州市と無錫市で開催される二胡コンクール『古月杯』に何度も資金を援助し、社会貢献に取り組んでいる。さらに毎年新区梅村鎮の貧困家庭を援助するため、地元の慈善協会に相当の金額を寄付している。また困難な家庭状況にある従業員がいれば気前よく援助をする。「富は皆で創り出すもので、自分が生み出した成果は多くの人と分かち合うべき」と萬其興は言う。
現在、萬其興は70歳の高齢だが、今なお毎日工場へ出勤している。長女の萬小紅(まんしょうこう)は古月琴坊の二胡製作師で、次女は学校の教師をしている。普段の仕事は長女の夫である黄建洪(こうけんこう)と次女の夫である卜広軍(ぼくこうぐん)の2人で管理している。2人は萬其興の長期に亘る指導の元、プロ仕様二胡の生産技術と業務管理を身につけた。しかし萬其興は楽器の品質だけは依然として気を抜けない。品質基準に満たない製品を一緒に出荷しないようにと、外観と音色をチェックし、時には座り込んで試奏をする。また中国民族器楽学会会員の萬其興は、二胡製作を通じて民族音楽の盛り上げに一役買っている。「無錫は民間芸術家阿炳の故郷です。彼の演奏曲《二泉映月》は歴史に名を残しました。私たちの楽器も独特のスタイルをもった彼のように、国内外で高く評価されることを願っています。」
古月琴坊は二胡の郷に活気を与えており、さらに萬其興の製作したプロ仕様の二胡は多くの演奏家に気に入られている。今や古月琴坊の楽器はシンガポール、マレーシア、日本、インドネシア、アメリカ、カナダ等海外に広く輸出されている。また中国国内の代理店は大中都市各地、至る所に展開している。